難しい道を選んで歩くことが正解だと信じている。
人生ではたくさんの選択をする。
「なにたべよう」「次にこれをしよう」
という些細な選択から、時には人生を変えるほどの大きな選択を。
選んだ瞬間は
「これがいい」
と思って選択をしているけれど、果たして本当に正解かなんてのは時間が経ってみたいと答え合わせはできないものだ。
だからわたしたちは自分自身の力で、選んだ道を正解にすることができるし、
そうしていくぞという気持ちで歩いていかないと
自分で自分を幸せにすることができないのかもしれない。
一瞬一瞬が納得のいく人生であるように、
自分の現在地やこの場所を選択した理由を反芻する。
でも時折その道の途中でまた選択を迫られることがあるのが人生という道であり。
たくさん悩んで、何度も振り返りながら道を歩んできたけれど、
もうどっちへ進めば良いのかわからない、どっちが正解なのか見当もつかない。
そんな瞬間もある。
そんなときにわたしは、心が動くほうへ正直に進むことにしている。
そしてその道は必ずと言っていいほど、険しい道なのだ。
平坦で塗装された道に魅力を感じない、というのもある。
なにかを選んで行動しなければいけないときに、
どうせなら楽な道ではなくて、苦難な道を行ってみよう!って本能的に思うんだろうか。
***
ここで今回の本題に入る。
そもそも上記の話を書いたのは、
「相変わらず困難な道を行くんだなぁ〜」
と実感した出来事があったからで。
いつもこのブログで書いているまゆじりくんの元妻さんの話。
これまでわたしは元妻さんに対していろいろな感情を抱いてきた。
「どんな人か知らないけどわたしよりも年上で賢くて多才な人なんだろうな」
と劣等感みたいなものを持ったこともあった。
「ひとりでまゆじりくんとの子供を育てていてすごいな。まゆじりくんの父親としての自己肯定感をあげてくれているのは子ちゃんと元妻さんだ。感謝しなくちゃ」
と感謝の気持ちを持ったこともあった。
「幸せを願うほど親交はないけれど、どうか健康でいてください」
と神様に元妻さんの健康をお祈りしていることもある。
「子供のためだからと言って別れた元夫に家族ごっこのようなことを提案してきて気持ち悪い」
と嫌悪の気持ちでいっぱいになったこともあった。
彼から元妻さんのマイナスな話を聞くたびに元妻さんへのイメージは下降し、「そんな人を信用して関わっているの?」
と彼への信頼も下がりそうになったときもあった。
「彼自身から元妻さんの気配を感じなければもういいや。目を瞑ろう」
といろいろな感情を手放そうとしたこともあった。
こうやって書き出してみると、いかにわたしがこの1〜2年間元妻さんのことを考え、悩み、その都度考えや対応を変えてきたことがわかる。
直接関わることはない、けれど彼と付き合っていて彼が子ちゃんと関わる以上、避けられない存在である事実は変わらない。
そんな半分空想の世界のような人物相手に、自分が与えられた情報と感情だけで整理しようとするのだから、当然思考は偏るしこじれる。
まゆじりくんも都度わたしの話に耳を傾け、わたしの提案やお願いをなるべく叶えてくれた。
立場の違いから理解し合えないことはいくつかあったけれど、それでもお互いに相手を否定したり、雑に扱うことだけはしないようにしようと、寄り添ってきたつもりだった。
けれど、日に日に増していく想像の世界での元妻さんと、それに彼が関わっている事実に耐えられなくなってきた。
とにかく彼女が関わっている事柄全てをわたしの目につかないようにしてほしい。
そんな気持ちだった。
そこまで対処してくれたら、「こちらも『親として関わっている』という事実を飲み込む」そんな思いだった。
それでどんどん彼への要求も増えていった。
優しい彼は最初は「わかった、これくらいすぐできるからやるよ」と言っていろいろ対応はしてくれたけれど、
彼の中でもできることとできないことがあるのも当たり前で。
「あけぼのちゃんの要求を100%完璧にこなすことはできないと思う。
現にいまもボロが出てあけぼのちゃんを悲しませているわけだし。」
と言われた。
つづいて、
「いまひとつひとつ対応している細かいことじゃなくて、そもそもの根源は元妻の存在にあると思う。
そして元妻と会わずに子供と会えるようになることをおれもあけぼのちゃんも望んでいるけど、それは思っているよりも先だと思う。
どんなに少なく見積もっても◯年。(ここでは伏せます)その◯年に間に何度も何度もまたきみを傷つけると思うし、おれもそれで良い気分ではないし。
だったらあけぼのちゃんか子供か、どちらか選ぶしかないのかなっていま感じた」
こんな感じのことを言われた。
わたしが彼と付き合うときに決めていることは
「もし彼がわたしと子ちゃんを天秤にかけてどちらかを選ぼうとしたときには、わたしは真っ先にその天秤から降りる」
ということ。
わたしを選ぶために子ちゃんと絶縁するような人と一緒にいたくないし、
子ちゃんを捨てて自分を選ばせるような人間にもなりたくない。
なによりわたしもいつか子ちゃんに会いたいのだ。ほんとにこれがいちばん。
目先のトラブルで視界がいっぱいになってしまっている感じが出てきてしまったので、
そもそものふたりの理想や目的は?という話に切り替えて、
まゆじりくん自体は本来どうしたいのか、
わたしはどうしたいのか、っていうのを話した。
わたしは、子ちゃんと自分をどちらか一方を選ぶということをされたらどんなに好きでもお別れする気持ちで初めから付き合っている、というのと、
だからこそどちらも選べるような関わり方をしていきたい、ということを伝えた。
まゆじりくんも、できれば将来子ちゃんとあけちゃんとおれとあけちゃんとの子供4人で会って笑い合っていたい、と。
まぁ、わたしと子ちゃんが会うとか、仲良くするとかは、わたしたちの気持ちだけじゃ実現できないところがあるし、子ちゃん本人の意思が最も尊重されるべきことだから決めつけはできないけど、わたしたちはそのつもりでいるよということをずっと貫いていたい。
お互いの望む未来はそんなにずれていないことが確認できたので、
そこからはじゃあどうすればそこに近づけるかという話で。
彼の想像が当たっているのであれば、あと◯年の間はわたしが最も懸念している元妻さんとの交流もなくならない。
でもそこに対しての考えや対応を白黒はっきりつけずにグレーにしてみようと。
これまでは気になることがあればすぐに排除して、わたしもモヤモヤをいち早く手放すことを優先して、それでなんとか心に折り合いをつけてきたつもりだった。
それが続いてくると、正直キリがないし、そのときは「これさえなくなればあとは平気」と思っても、結局新たな問題は無限に湧いて出てくる。
わたしも思考や対処方法が極端になっていたんだと思う。
これまでは気になったことやモヤモヤしたことを曖昧する=向き合わずに逃げている、楽をしている。と思ってはっきりした行動に移してきてやってこれた。
けれどそれももう打つ手なし。完全に行き詰まった。これ以上極端な対応をしようとすれば、それはやっぱり彼がわたしと(元妻とセットの)子ちゃんのどちらかを選んで、どちらかと離れること考える道しかなくなるだろう。
それってもはや極論に走って楽してない?って思って。
これからは、いままで気になってきたことや白黒はっきりさせて解決してきたことをあえて曖昧にしてみようと思った。
これからも彼と一緒にいるために。
もちろん嫌なことを我慢したり、自分を押し殺して犠牲になるつもりはない。
けれど、心に浮かんだモヤモヤをすぐに吐き出して無くそうとするのではなく、
モヤモヤを感じた上でどうやって自分なりに受け入れようか一旦考えることにした。
どうしても許容できないときは彼に伝えるし、許容できるときは自分で解決する。
それで彼もわたしの話を優先してくれるときもあれば、それは厳しいと思う時もあるだろう。
そうやってひとつの物事に毎回答えを出すのではなく、
ひとつの物事にもいろんなパターンがあること前提に動いてみる。
そしていつか望んだ場所にたどりつけたらその全ての行動が正解となるはずだから。
わたしとまゆじりくんの性格からしてこの曖昧にする、という行動はきっと難しいだろう。
でも極端な発想を捨てることによって、歩み寄りができるようになった気もする。
そんな感じでまたゆっくり歩いていきたい。